龍馬は1人ではなかった
4人目の龍馬-01-

慶応2(1866)年1月23日「寺田屋事件」
薩長同盟が成立した2日後のこと。幕府伏見奉行所は、坂本龍馬の捕縛を目的として、深夜、寺田屋を襲撃。捕り方の数は百数十人。対するは、龍馬と同宿していた長州藩・三吉慎蔵。寺田屋を囲む不穏な空気に気づいたのは、一階で入浴中の "お龍" だった。お龍は裸のまま2階の龍馬に危機を知らせる。
------これは誰もが知るところの事件だが、歴史年表をよく見ると2日前に「薩長同盟」が成立している。どこかおかしい。この点と点、簡単には結べない-----
龍馬は、踏み込んできた捕り方相手に、拳銃を打っ放しながら三吉と共に応戦。手傷を負いながらも寺田屋を脱出。九死に一生を得る。寺田屋襲撃をなんとか逃れた龍馬は、伏見藩邸からおりょうと共に鹿児島に脱出する。龍馬は海舟から「西洋では結婚後に夫婦で旅行に行く習慣がある」と訊いていたことから、日本初の新婚旅行に出かける手筈だった。
ところが、その航路のなか龍馬の蝋燭病が悪化する。なんとか長崎のグラバー邸に辿り着き、隠れ部屋におりょうと共に入ったが、そこで龍馬は寝ついてしまう。病は悪化するばかりで良化することはなかった。そこへ土佐藩からの使者が伝令を持って現れた。部屋に入った途端、異臭と包帯に巻かれた龍馬を見て思わず後退りする。目と口元だけは露出しているが、鼻の部分を中心にグルグル巻きにされた龍馬が横たわっていた。そんな龍馬を眼下にしながら、使者は言う「もう一度入京を命ず」。龍馬とおりょうは顔を見合わせた。
このとき伝令を持って現れた使者は脱藩志望であったことから、"今を逃して脱藩のチャンスはない" と考え、龍馬に伝令を託すとそのまま出奔してしまう。残された龍馬とお龍はこう考えた。藩の命を重んじるならば "身代わりを立てるしか方法はない" と。
そして慶応3(1867)年 4人目龍馬が京へと旅立つ。4人目が発った3ヶ月後、3人目龍馬は、お龍に看取られながら極楽浄土へと旅立った。
-----これは藩にとって想定外の出来事で、まさか3人目龍馬が病に倒れ、4人目龍馬が京入りしているとは誰も気付くことはなかった。もちろん4人目龍馬も背丈は五尺八寸、容貌も3人目龍馬に似たような人物が選ばれた。もちろん年齢は33歳である。寄宿はやはり土佐藩邸ではなく小千葉道場だった-----

資料 : 時空Road出版制作
慶応3(1867)年6月9日「船中八策」
4人目龍馬の初仕事である。(4人目の龍馬登場・33歳)
土佐藩船「夕顔丸」で長崎から京までの船中、龍馬が、後藤象二郎に示した八か条からなる新しい国家体制の要項。明治政府の基本方針といわれている『五箇条の御誓文』につながる条文。
-----これは勝海舟・佐久間象山・横井小楠から訊いたことを、グラバー邸内の隠れ部屋で3人目龍馬が最後の力を振り絞って語り、おりょうが書き綴ったもの。4人目龍馬はそれを自分のものとして発表した-----
✱次回は「4人目の龍馬-02-」