おい、竜馬は4人いたんだってさ!!

「先輩、・・・見ましたよ。Yokohama 1868、別アカウント『坂本龍馬異聞』。オフィシャルサイト『龍馬は4人いた』を再編集したんじゃないっすか、なんか前よりわかりやすかった。だけど『龍馬ひとり説は作家のしわざ』って言い切ったっすね」

「珍しく素直に嬉しい貶し方だな」

 

「いつも通りの展開ですね。じゃ、“坂本龍馬異聞の経緯”とかナインスか?」

「出たなナインス男子。仕込んだような申し出だな。そんじゃ、それに乗っかって一席語るよ。“坂本龍馬異聞制作にあたり”・・・10年ほど前だ。雑誌『土方歳三と京を歩く』の制作に参加する機会があった。その時思った。同時期に上洛した龍馬と歳三は京で一度もすれ違っていないのか? ってな」

 

「そうでっせ、すれ違っていてもおかしくナインス。京なんてたいして広くないっすから」

「それが、そうでもないんだ。今と違って自転車もタクシーもない、あの時代の移動は全て徒歩なんだからな。今回歩いてみたら結構広いぜ」

 

「そうっすか、それは失礼しやした」

「歳三の本を作ってるとき、左側に『龍馬』右側に『歳三』の歴史年表を並べ、すれ違っていてもおかしくない日付を見比べる。ところがそんなシーンは何処にも見当たらない。そこで考えた。『スーパーレジェンド・坂本龍馬』が出来上がる経緯は?  何かそれに類した底本はないものだろうか? とな」

  

「あるんすか、そんな本が?」

「それがあったんだよ。龍馬が暗殺されてから16年後、明治16(1883)年の龍馬伝『汗血千里の駒』。著者は坂崎紫蘭。この“千里の駒”が近代龍馬の源流になっていることは確かだ。子母澤寛の小説『新選組始末記』、司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』で幕末模様が浮き彫りになり、新選組隊士の姿が色濃くイメージされたんだ」

 

「確かに、オレはリアルタイムで観てないんだ。劇場映画『燃えよ剣』(1966年)の放映。テレビでは『新選組血風録』(1970年・全26話)として放送された。この人気は凄かったらしい。役柄と役者(栗塚旭)がトンピシャのイメージだったという話でっせ。それに司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で龍馬のイメージが固まってしまったんでしょ」

「凄いな。一夜漬けというより用意してきたような語り口だな」

 

「なんだ、わかっちゃいました? いつになく勉強してきましたから」

「そりゃ嬉しいね。竜馬に関して言えば、読者のみんなが作家に洗脳されてこれが龍馬だと思い込んだ。それに納得しない俺はさっき話た坂崎紫蘭の徹底追求することにした」

 

「反骨精神旺盛でんな、そこんとこ訊きまっせ。ここでついでに龍馬と歳三、それに紫蘭さんとの年齢差も頼んます」

「わかった、わかった。龍馬は天保7(1836)年。歳三は天保6(1835)年生まれ。ま、同い歳といっていい。次は坂崎紫蘭だが、土佐藩医を父に持ち、黒船来航の嘉永6(1853)年に江戸は鍛冶橋の土佐藩邸内で産まれた。ちょうど龍馬が千葉定吉道場の門弟になっていた頃の話だから、龍馬との年齢差は18歳だ」

 

「18歳の差だったら、ほとんど同時代の空気吸ってまっせ」

「そうだな。明治16(1883)年、自由民権運動が盛んなさなか『汗血千里の駒』が高知の地方紙『土陽新聞』に連載物として世に出た」

 

「はじめは新聞の連載物だったんすか」

「そうだ。連載終了後に単行本となり、明治期に50版を重ねるほどのベストセラー小説となった。今回、文語訳の『汗血千里の駒・坂本龍馬君之伝』坂崎紫蘭 作・林原純生 校注。現代語訳・坂本龍馬『汗血千里の駒』中村茂生・磯田和秀 訳の2冊を資料とした。見苦しい言い訳だが年表を見比べていた当時の資料は、Lサイズの段ボール箱3個がいっぱになってた。なぜか今回はこの2冊だけだけどな」

 

「この2冊のうちの『現代語訳』ってのはわかるすが、『文語訳』ってのはどんな感じなんすか?」

「突っ込んでくるねぇ〜。第三十一回(話)寺田屋事件の風景だ。

『斯(かか)りける所に討手(うって)の中より太刀抜きかざして1人の壮士 我に続けと喊(おめ)いて上(のぼ)るを 龍馬は見るよりチッとも動ぜずツトさし向くる短銃にズドンと一発 ねらい違(たが)わで憐(あわ)れや壮士は眉間を撃たれて斃(たお)るる死骸を踏み越え踏み越え前(さき)に進みし二人三人つづけざまに打ち出す弾丸或(ある)いは胸板或いは頭脳急所の痛手にたまり得ず圧(お)し重りてなだれ落ちるに 討っては・・・』ってな感じかな」

 

「うわっ、ガチ迫力でっせ。これに先輩は『どっぷり、ど壺』になってるんすね。・・・それに先輩にも熱かった時代があったんすね」

「さて、ここから龍馬伝説の不可解な点を解明する話になるんだが、ミカン箱時代も点と点をいくら結び線にするんだが物語が綴れない。あるいは他著で出来上がったはずの点と点を結んだ線の曖昧なことに気づくんだ」

 

「そりゃ、とんだ所で引っかかりましたね』

『土方歳三と京を歩く』では浮上しなかった不可解な点の連続だ。歴史年表を穴のあくほど見ても、いくら資料を集めても、“龍馬は独りではない”に行きついてしまう。例を挙げれば有名な薩長同盟も船中八策も“作家のしわざ”としか考えられない証拠が芋づるに浮かんでくる。結局当時はその不可解な点が背負いきれず『坂本龍馬と京を歩く』は挫折、頓挫となった」

 

「認めましたっすね、挫折を」

「ここだけの話だが、龍馬ひとり説のお陰で司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が完成したんだ」

 

「そんなことじゃないかと思ってましたっす」

「しばらく逢わないうちに凄いね、観察力・洞察力が朽ち果ててるな」

 

「それを言うなら“満ち溢れてる”でっせ」

「亀の甲より歳の功。下手なボケによく付き合えたな」

 

「それでどうなんです? 今後の見通しは?」

「まずは、▶龍馬ひとり説は作家のしわざ。真能柊一が明かす龍馬4人説『坂本龍馬異聞』。をもう一度読んでみてくれ。優れた観察力があれば、どんな本になるか想像できると思うが?」

 

「オレの憶測じゃ口語体を駆使しての小説と思ってるんすが、どうすか?」

「いいね、その憶測いただきましょ。いまある“不可解な点と解明”を本文に入れ込みながらの創作だ。そこで現在の掲載文に加筆と削除を重ね4人の龍馬説『坂本龍馬異聞』を完成させようって寸法さ。いまページネーションを組み上げてるところだ」

幕末の履歴書-09-

幕臣勝海舟

 

先日、龍馬が私に会いに来ました。そのときの様子を物語風に少しだけ話しましょう。

龍馬は、松平春嶽からの紹介状を懐に、門田為之助・近藤長次郎と連れ立って、赤坂氷川に住まいする幕府軍艦奉行並・勝海舟邸を訪れた。

龍馬たちが通された部屋は200畳はあろうかという大広間。部屋の中央には冷たくなった火鉢がひとつ、ぽつんと置かれているだけで座布団などはない。これが海舟一流のもてなし方だ。

勝先生は何を考えちょるか。12月の寒い最中、まるで庭石にでも座っちょるかのようじゃき」と言いたかったが、寒さでうまく歯が噛み合わない。

そんなことにはお構いなしで海舟は話しだす。

「俺は30過ぎまで酒はいっさい呑まなかった。いや、呑めなかったが正しい。それが30後半になって呑めるようになった。そのわけを話そう」

誰もそんな話を訊こうとおもっちょおらん」と、言いたかったが、みんな声が出ない。顎が震え、歯がかち合うのを堪えるだけで精一杯なのだ。

海舟は続ける。「ある日、毎日張り詰めていた心が急に穏やかになり、今までにない心のあり様に自分でもびっくりした。とにかく気持ちが広くなり、なんでも許せる心持ちになったと思いなさい(今流に言えばチャクラが開かれた)。すると自然に酒が美味しく感じるようになってきた。そのうちに酌をしてくれる婦人が現れた。そんなことを半月ほど続けていると、今度は婦人の後ろから仕事が次々と現れたのさ。 そのお陰でこの歳になっても、酒も婦人も仕事まで、なんの不自由もなく暮らしている。好き勝手なことを言ってな」

そこで話はひと段落し海舟が手を叩く。まもなく麗しい婦人が書類を持って現れた。若いが第三妾である。「なになに、これがわしの履歴書か?  そこへ置いといてください。後ほど第一妾の膝枕で拝見しますから」

✱幕末の履歴書・完

幕末の履歴書-08-

思想家・吉田松陰

 

嘉永7(1854)年、私が24歳のとき2度目のペリー艦隊が来ました。海外の文化に触れたくて、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ「海外に連れて行ってほしい」と頼んでみたんです。しかし、この密航の申し出は当然ですが却下されました。陸に戻り奉行所に理由を言ったところ牢に入れられてしまいます。

しばらくして江戸の牢から長州藩の"野山獄"という牢屋に移されます。何もすることがないので1年間に数百冊の本を読みました。また牢内で黒船への密航を振り返った書籍『幽囚録』も書きました。

翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となりました。そこで"松下村塾"を開き、幕末から明治にかけて活躍した人材の育成もしてます。中には高杉晋作伊藤博文木戸孝允らもおりました。はい、そんなことですから自慢ではありませんが、女体の秘密はまったく存じ上げません。

結果的に50冊以上の著書を書き残してます。安政6(1859)年、29歳のときに"安政の大獄"により江戸で処刑されました。また処刑前日、懲りずに書き上げたのが『留魂録』です。そんなわけで私の履歴書はまったく面白くありませんよ。

✱次回は、幕末の履歴書「幕臣勝海舟」最終回です。

幕末の履歴書-07-

長州藩士・桂小五郎

 

桂小五郎を改名し今は木戸孝允です。長州藩の指示で"木戸"姓を使い始め、維新後は"木戸孝允"を名乗っています。若い頃は長州藩士・桂小五郎という名でかなり遊んでいました。そのころですよ、小説「鞍馬天狗」に引っ張り出されていたのは。木戸に変わってからはお呼びがかかりませんがね。

私は藩医の家に生まれで後に桂家の養子になりました。吉田松陰に学び、江戸で剣術を修めた後に長州藩を代表する人物として活躍していることは皆さんご存知ですよね。「薩長同盟の締結」や「五箇条の御誓文」の起草など、明治維新の立役者の1人として知られています。

維新後の明治政府で参与・参議などを歴任し、「版籍奉還」や「廃藩置県」など、近代国家の樹立に貢献してます。ところが西南戦争中に病没してしまいます。倉田典膳(鞍馬天狗)さんと、履歴書を肴にもう一度あの頃の話をしたかった、無念です。享年43

✱次回は「思想家・吉田松陰

幕末の履歴書-06-

土佐15代藩主・山内容堂

 

私は土佐15代藩主を務めます山内容堂と申します。

ご存知薄いと思いますが、坂本龍馬を世に送り出したのは私なんです。ここで一般に知られていない龍馬の裏側をお話ししましょう。

嘉永6年3月4日、龍馬19歳の時です。剣術修行という名目で江戸に向かわせました。実際は諜報員としての江戸派遣です。すぐに鍛冶町の土佐藩上屋敷に寄宿し、桶町にある北辰一刀流千葉定吉道場の門弟となります。

まあ、彼も若いので致し方のないことなんですが、この道場で龍馬は定吉の娘"佐奈"と親しくなるんです。結果、定吉も認める仲となり結納もどきものまで交わします。そして安政元年6月、15ヶ月間の諜報活動を終え帰郷します。

次に龍馬を江戸に送り込んだのは安政3年9月のことです。もちろんこれは別人、2人目の龍馬です。龍馬が2度目に江戸に現れてからプッツリと龍馬と婚約者・佐奈の恋話は歴史年表にも時代小説にも出てこないのも当たり前のことです。1人目の龍馬は手が早かったので、今度は男色の龍馬を送り込んだ次第です。

いかがですか、私の履歴よりも龍馬スパイ談のほうが興味深いでしょ。

真実はいつも闇の中に葬り去られるものです。

✱次回は「長州藩士・桂小五郎

幕末の履歴書-05-

庄内藩郷士清河八郎

 

私策のもと、伝通院に集まった食い詰め浪人234名は中山道を16日間かけて京に登ります。

御所拝観予定の文久3年2月23日、私は新徳寺本堂に於いて「尊攘論」の大演説をぶちかまします。これは即刻江戸に戻り「異国人の全てを抹殺しよう」というものです。

それに反し芹沢鴨近藤勇土方歳三ら13名が京に残ると言い出します。世の中全てが思い通りになるとは限りません。

同年3月13日、うまく策に落ちた200名余りと江戸へ向かいます。ところが京を発って1ヶ月後の4月13日、幕臣佐々木只三郎・窪田泉太郎らによって私はあっけなく殺されてしまいます。

残念なことに新選組の最後を見届けることは叶いませんでした。また近藤先生と違い歌を詠む心得があったので殺される当日にも2首を詠んでいます。その内容は「まるで殺されることを予知していたような歌だ」と近代の解説者は言います。

ここで当日に詠んだ2首を紹介します。

「魁がけて またさきがけん 死出(しで)の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道」

「砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ」

どうです、結構いけるでしょ。

✱次回は「土佐15代藩主・山内容堂

 

幕末の履歴書-04-

新選組三番隊  隊長・斎藤一

 

俺は無口だが手は早かった。

19歳の時、江戸小石川で旗本と口論になり斬ってしまった。そこで親父の友人である吉田某のもとに身を隠しながら吉田道場の師範代を務めたんです。自分で言うのもおかしいが、それほどの腕前なんです。

その後は皆さんご存知のように新選組の副長助勤・三番隊隊長・撃剣師範を務めた。役目がら慶応3年3月、伊東甲子太郎御陵衛士を結成して新選組を離脱した時、スパイとして御陵衛士に入隊もしました。

新選組に復帰する際に御陵衛士の活動資金を盗んで逃げたと伝わるが、これは金に困って逃げたように見せかけるためなんだ(そんな必要はなかったけどね)。新選組内に「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出たらしいが俺は見ていない。のちに起きた「油小路事件」は、俺が復帰の際にもたらした手土産情報に基づいて実行したものだ。

剣術の方は、またまた自分で言うのもおかしいが、沖田総司永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったと世間ではいわれている。

ま、最強の剣士とは嬉しいね。今日はこんなところで失敬するよ。なに、履歴書だって。そんなものに俺は興味ないね。

次回は「庄内郷士清河八郎