幕末の履歴書-09-
先日、龍馬が私に会いに来ました。そのときの様子を物語風に少しだけ話しましょう。
龍馬は、松平春嶽からの紹介状を懐に、門田為之助・近藤長次郎と連れ立って、赤坂氷川に住まいする幕府軍艦奉行並・勝海舟邸を訪れた。
龍馬たちが通された部屋は200畳はあろうかという大広間。部屋の中央には冷たくなった火鉢がひとつ、ぽつんと置かれているだけで座布団などはない。これが海舟一流のもてなし方だ。
「勝先生は何を考えちょるか。12月の寒い最中、まるで庭石にでも座っちょるかのようじゃき」と言いたかったが、寒さでうまく歯が噛み合わない。
そんなことにはお構いなしで海舟は話しだす。
「俺は30過ぎまで酒はいっさい呑まなかった。いや、呑めなかったが正しい。それが30後半になって呑めるようになった。そのわけを話そう」
「誰もそんな話を訊こうとおもっちょおらん」と、言いたかったが、みんな声が出ない。顎が震え、歯がかち合うのを堪えるだけで精一杯なのだ。
海舟は続ける。「ある日、毎日張り詰めていた心が急に穏やかになり、今までにない心のあり様に自分でもびっくりした。とにかく気持ちが広くなり、なんでも許せる心持ちになったと思いなさい(今流に言えばチャクラが開かれた)。すると自然に酒が美味しく感じるようになってきた。そのうちに酌をしてくれる婦人が現れた。そんなことを半月ほど続けていると、今度は婦人の後ろから仕事が次々と現れたのさ。 そのお陰でこの歳になっても、酒も婦人も仕事まで、なんの不自由もなく暮らしている。好き勝手なことを言ってな」
そこで話はひと段落し海舟が手を叩く。まもなく麗しい婦人が書類を持って現れた。若いが第三妾である。「なになに、これがわしの履歴書か? そこへ置いといてください。後ほど第一妾の膝枕で拝見しますから」
✱幕末の履歴書・完
幕末の履歴書-08-
思想家・吉田松陰
嘉永7(1854)年、私が24歳のとき2度目のペリー艦隊が来ました。海外の文化に触れたくて、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ「海外に連れて行ってほしい」と頼んでみたんです。しかし、この密航の申し出は当然ですが却下されました。陸に戻り奉行所に理由を言ったところ牢に入れられてしまいます。
しばらくして江戸の牢から長州藩の"野山獄"という牢屋に移されます。何もすることがないので1年間に数百冊の本を読みました。また牢内で黒船への密航を振り返った書籍『幽囚録』も書きました。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となりました。そこで"松下村塾"を開き、幕末から明治にかけて活躍した人材の育成もしてます。中には高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允らもおりました。はい、そんなことですから自慢ではありませんが、女体の秘密はまったく存じ上げません。
結果的に50冊以上の著書を書き残してます。安政6(1859)年、29歳のときに"安政の大獄"により江戸で処刑されました。また処刑前日、懲りずに書き上げたのが『留魂録』です。そんなわけで私の履歴書はまったく面白くありませんよ。
幕末の履歴書-07-
桂小五郎を改名し今は木戸孝允です。長州藩の指示で"木戸"姓を使い始め、維新後は"木戸孝允"を名乗っています。若い頃は長州藩士・桂小五郎という名でかなり遊んでいました。そのころですよ、小説「鞍馬天狗」に引っ張り出されていたのは。木戸に変わってからはお呼びがかかりませんがね。
私は藩医の家に生まれで後に桂家の養子になりました。吉田松陰に学び、江戸で剣術を修めた後に長州藩を代表する人物として活躍していることは皆さんご存知ですよね。「薩長同盟の締結」や「五箇条の御誓文」の起草など、明治維新の立役者の1人として知られています。
維新後の明治政府で参与・参議などを歴任し、「版籍奉還」や「廃藩置県」など、近代国家の樹立に貢献してます。ところが西南戦争中に病没してしまいます。倉田典膳(鞍馬天狗)さんと、履歴書を肴にもう一度あの頃の話をしたかった、無念です。享年43
✱次回は「思想家・吉田松陰」
幕末の履歴書-06-
土佐15代藩主・山内容堂
私は土佐15代藩主を務めます山内容堂と申します。
ご存知薄いと思いますが、坂本龍馬を世に送り出したのは私なんです。ここで一般に知られていない龍馬の裏側をお話ししましょう。
嘉永6年3月4日、龍馬19歳の時です。剣術修行という名目で江戸に向かわせました。実際は諜報員としての江戸派遣です。すぐに鍛冶町の土佐藩上屋敷に寄宿し、桶町にある北辰一刀流・千葉定吉道場の門弟となります。
まあ、彼も若いので致し方のないことなんですが、この道場で龍馬は定吉の娘"佐奈"と親しくなるんです。結果、定吉も認める仲となり結納もどきものまで交わします。そして安政元年6月、15ヶ月間の諜報活動を終え帰郷します。
次に龍馬を江戸に送り込んだのは安政3年9月のことです。もちろんこれは別人、2人目の龍馬です。龍馬が2度目に江戸に現れてからプッツリと龍馬と婚約者・佐奈の恋話は歴史年表にも時代小説にも出てこないのも当たり前のことです。1人目の龍馬は手が早かったので、今度は男色の龍馬を送り込んだ次第です。
いかがですか、私の履歴よりも龍馬スパイ談のほうが興味深いでしょ。
真実はいつも闇の中に葬り去られるものです。
幕末の履歴書-05-
私策のもと、伝通院に集まった食い詰め浪人234名は中山道を16日間かけて京に登ります。
御所拝観予定の文久3年2月23日、私は新徳寺本堂に於いて「尊攘論」の大演説をぶちかまします。これは即刻江戸に戻り「異国人の全てを抹殺しよう」というものです。
それに反し芹沢鴨・近藤勇・土方歳三ら13名が京に残ると言い出します。世の中全てが思い通りになるとは限りません。
同年3月13日、うまく策に落ちた200名余りと江戸へ向かいます。ところが京を発って1ヶ月後の4月13日、幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎らによって私はあっけなく殺されてしまいます。
残念なことに新選組の最後を見届けることは叶いませんでした。また近藤先生と違い歌を詠む心得があったので殺される当日にも2首を詠んでいます。その内容は「まるで殺されることを予知していたような歌だ」と近代の解説者は言います。
ここで当日に詠んだ2首を紹介します。
「魁がけて またさきがけん 死出(しで)の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道」
「砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ」
どうです、結構いけるでしょ。
✱次回は「土佐15代藩主・山内容堂」
幕末の履歴書-04-
俺は無口だが手は早かった。
19歳の時、江戸小石川で旗本と口論になり斬ってしまった。そこで親父の友人である吉田某のもとに身を隠しながら吉田道場の師範代を務めたんです。自分で言うのもおかしいが、それほどの腕前なんです。
その後は皆さんご存知のように新選組の副長助勤・三番隊隊長・撃剣師範を務めた。役目がら慶応3年3月、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱した時、スパイとして御陵衛士に入隊もしました。
新選組に復帰する際に御陵衛士の活動資金を盗んで逃げたと伝わるが、これは金に困って逃げたように見せかけるためなんだ(そんな必要はなかったけどね)。新選組内に「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出たらしいが俺は見ていない。のちに起きた「油小路事件」は、俺が復帰の際にもたらした手土産情報に基づいて実行したものだ。
剣術の方は、またまた自分で言うのもおかしいが、沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったと世間ではいわれている。
ま、最強の剣士とは嬉しいね。今日はこんなところで失敬するよ。なに、履歴書だって。そんなものに俺は興味ないね。
幕末の履歴書-03-
わざわざこんなところまでおいでいただき恐縮です。
本来なら僕から出向くべきなんでしょうが、床に伏せってもう1年半になります。不甲斐ない私をお許しください。
最近は労咳(肺結核)だけではなく認知症の症状もあり、ありもしない物まで見えてしまうことから「レビー小体型認知症」と医者に診断されました。これじゃ剣士生命も終わりですね。
あっ、あそこに大きな黒い猫が牙をむいています。すぐにでも抹殺しに行かなくちゃいけません。僕の愛刀 "菊一文字則宗" を取ってください。
ところで近藤さんはどうされています? お元気ですか。相変わらずお妾さんのところですか? 先ほどまでそこにおられたようですが?
土方さんは郷里の日野に帰られて、薬の行商を始められたそうですね。よかった。
そう言えば芹澤さんは誰方かに惨殺されたとか風の便りに聞きましたが、お元気でしょうか。僕も間もなくそちらに逝きますので、芹澤さんに待っていてくれるようにお伝えください。
えッ、私の履歴書ですか? そこにいる黒猫に渡しといてください。


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✱次回は「